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    <title>Spork!  WASEDA Graduate School of Journalism WEB Magazine</title>
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    <updated>2012-03-26T07:15:38Z</updated>
    <subtitle>早稲田大学ジャーナリズム大学院のウェブマガジン</subtitle>
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    <title>プラムポックスウイルスに揺れる「梅の里」</title>
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    <published>2012-03-26T00:00:10Z</published>
    <updated>2012-03-26T07:15:38Z</updated>

    <summary>　未成熟なまま果実を落とし、商品価値を無くしてしまうプラムポックスウイルス（PP...</summary>
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        <![CDATA[<p>　未成熟なまま果実を落とし、商品価値を無くしてしまうプラムポックスウイルス（PPV）に感染したウメが、東京都青梅市で多く見つかっている。市内で2012年度に、1万本あまりが処分される見通しだ。今までに処分した数と合わせると、6万5000本あまりあった青梅市のウメ3分の1が処分される計算になる。3年前に青梅市で初めて感染が確認されて以来、調査を行ってきた結果、地域によっては壊滅的な被害を受ける見通しであることが明らかになった。その地名の由来であり観光資源である青梅市にとっては大きな打撃となっている。</p>
<p style="text-align: center;"><span style="font-size: x-small;"><strong>　（写真はプラムポックスウイルスに感染した南高梅の葉。原島さんのウメ畑で）</strong></span></p>]]>
        <![CDATA[<h5>2009年に青梅市で国内初の確認</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;2009年、東京都青梅市でプラムポックスウイルスに感染したウメが国内で初めて確認された。農林水産省によると、プラムポックスウイルスは、ウメやモモなどサクラ属の植物に感染するウイルス。感染した樹の葉には斑点が出たり、果実が成熟前に落ちてしまったりして、ウメとしての商品価値を無くしてしまう。感染したウメの実を食べたとしても人体に影響はない。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>
<p><span enctype="application/x-www-form-urlencoded" method="get" class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a rel="lightbox" href="http://www.spork.jp/ume2.jpg"><img class="mt-image-center" style="text-align: center; display: block; margin: 0 auto 20px;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2012/03/ume2-thumb-400x267-1531.jpg" alt="ume2.jpg" width="400" height="267" /></a></span></p>
</p>
<p><span style="font-size: x-small;"><strong>&nbsp;　</strong></span><span style="font-size: x-small;"><strong>青梅市梅郷地区にある原島馨さんのウメ畑。樹は2012年中に処分される予定だ。</strong></span></p>
<p>&nbsp;&nbsp;2010年2月、農林水産省が「緊急防除」をあきる野市、青梅市、八王子市、羽村市、奥多摩町、日の出町で開始した。この措置によって、対象地域からウメなど感染する可能性のある植物の行き来が禁止されているほか、感染している樹は根から抜いて切り分け、焼却することになっている。処分した樹については、国からの交付金をもとに都が補償する。消費・安全対策交付金として、2010年度には調査費や処分の費用などを含めて、国から2億4000万円あまりが交付されている。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>ウメの3分の1を処分&nbsp;</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;調査により青梅市では2010年までに約800本の感染樹が見つかり、1万2500本あまりを処分した。生産園地で感染が見つかった場合、全体の10％以上が感染していたら、園地内の全てのサクラ属の植物を処分する。そのため感染した樹の数よりも処分する数のほうが多い。2011年に行われた調査では「梅の里」として、ウメ農家が多く住んでいる梅郷地区を中心に、3046本の感染した樹が見つかった。2012年度に9000本以上が処分される予定だ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;40年来、同地区でウメを育て続けてきた原島馨さん（71）、富代(ひさよ)さん（68）夫妻も例外ではない。今年中に育てているウメの樹100本あまりが処分される予定だ。「まだ樹が処分される前だから分からないけど、全部が根ごと抜かれたらどういう気持ちになるのかな&hellip;」と苦笑い交じりに、富代さんはこぼした。1970年代から徐々に同地区でウメを植える人が集まるようになり、梅郷地区は「梅の里」になっていったのだという。富代さんは、おもむろに1970年代に撮影された同地区の航空写真を取り出した。写真には土肌ばかりが写り、どこにもウメの樹が見当たらない。それを見て「この時に戻る、ってことなんですよ」と語る。それでも、ウメを作っていきたいという気持ちに変わりはない。「この地区のウメ農家は高齢化しています。だから、少しでも早くウイルスを根絶して、ウメを植えられるようにしてほしいんです」と馨さんは話した。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>観光かウメ生産か、悩む農家</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;プラムポックスウイルスは、アブラムシに運ばれて拡大する。そのため、至近距離にサクラ属の植物があると、いつまでも感染源を絶つことができないのではと心配する農家は多い。生産園地と異なり、公園や家の庭で育てている樹については例え10%以上の感染が確認されても、感染している樹のみを処分する。とくに1700本のウメの樹が植わっている「梅の公園」がある梅郷地区では「公園に樹が残り続けることでウイルスが絶えないのでは」と憂慮する声もある。「梅の公園」は青梅市有数の観光地で、毎年2月には梅の花を楽しむ「吉野梅郷梅まつり」が催され、観光客で賑わせている。</p>
<p>　梅郷地区で補償交渉を担当する青梅市の職員は「梅の公園にあるウメの樹の感染は10%に達していない。しかし、ウメの樹が残ることを心配する農家の声は確かにある。また庭木と生産園地の境があいまいな所も多く、苦労している点だ」と話した。補償交渉を終え次第、処分のための作業に入る。</p>
<p>　JA吉野梅部会会長の石川毅さん（73）は「公園に一本も樹を残さないと観光が成り立たないことも事実だし、管理をしているのは市だから私たちがどうしろとは言えない。しかし、私たちが処分に協力しているのは、一日でも早くウイルスを無くしてほしいから。まずは今年の作業を終えて、今後、新たな感染が出てくるのかどうか様子を見守りたい」とした。</p>
<p>　2012年3月、市と農家とで「梅の里再生計画検討委員会」を立ち上げた。これから「梅の公園」の今後を含めて「梅の里」をどう再生していくか話し合われる予定だ。<span id="_marker">&nbsp;</span>&nbsp;<img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年秋学期のJ-School実践授業「調査報道の方法」において作製しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>若者ミュージシャンが見た3.11</title>
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    <published>2012-03-02T14:23:53Z</published>
    <updated>2012-03-16T10:43:55Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;東京都に住む田中健介さん（２３）は、「ヒラオ・コジョー・...]]></summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;東京都に住む田中健介さん（２３）は、「ヒラオ・コジョー・ザ・グループサウンズ」のギタリストとして活動するかたわら、３月１１日の東日本大震災の直後から被災地でのボランティア活動を続けている。「被災地で感じた想いを、音楽を通して東京の人に伝えていきたい」と語る田中さん。音楽家として、一人の若者として、彼はこの大震災をどうとらえたのか。そして音楽は、復興の力となるのだろうか。</p>]]>
        <![CDATA[<h5><strong>音楽が被災地へと動かす</strong></h5>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――田中さんは兵庫県出身です。今度の震災直後からボランティア活動をしているのは、阪神大震災の経験が関係しているのでしょうか。</strong></p>
<p>「兵庫県の出身だが、西部の赤穂市で阪神地域から遠く、被災の経験はなかった。今度の大震災の時は東京にいて、帰宅できないなど初めて震災の不安を実感した。東京でこれだけの混乱なら被災地はもっと大変だろうと思い、ボランティア組織に入った」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――支援活動として、被災地でのボランティア活動を選択した理由は。</strong></p>
<p>「現地ではいろいろなニーズがあって、それぞれ身の丈に合った活動があると思う。有名なミュージシャンなら音楽で救える人がいるかもしれない。お金がある人はそれを使える。自分にあるものといえば時間と体力。実際、汗をかきながら瓦礫や泥を撤去をすることが東北の人に喜ばれ、自分も微力ながら力になれると感じた」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――被災地での活動で特に印象的だったことは何ですか。</strong></p>
<p>「福島では４月までボランティアの態勢が整っていなくて、やっといわき市の小名浜に入れた時には『今ごろ（来たのか）』という空気を感じて、自分の無力感を悲しく思った。また、家の泥かきや瓦礫撤去の際、自分と同じようにギターとかレコードがたくさんある家を担当したこともあった。当たり前かもしれないけど、被災地にもバンドをやっている人たちがいることを知って、その時初めて東北の人たちを『被災者』でなく『個人』として思いを馳せるようになった」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――被災地での活動は音楽活動に生かせると感じる部分はありましたか。</strong></p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"></span>
<p><a rel="lightbox" href="http://www.spork.jp/wakamono_01.jpg"><img class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2011/11/wakamono_01-thumb-200x299-1450.jpg" alt="wakamono_01.jpg" width="200" height="299" /></a>「正直、ボランティア活動に行く前は生かせるんじゃないかと考えていた。単純にチャリティーライブで募金集めて、ついでに名前も知ってもらえるんじゃないかって。でも実際の被災状況を知るとそんな簡単な話じゃないって思った。ミュージシャンとして何ができるかを考えるより先に、まず個人的に何かしなきゃという焦燥感があった。現地でのボランティア活動が音楽活動に反映するとか考えられる余裕なんてなかった。とにかく、東北の人が何を必要としてるのか考えるのに精一杯だった」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――バンドとしてはどういう支援活動を行っていますか。</strong></p>
<p>「他のバンドとコンピレーションアルバムを制作・販売し、売り上げのすべてを（被災地に）寄付している」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――音楽による支援活動に葛藤を感じることは。</strong></p>
<p>「東京では『不謹慎だ』というムードがあって、売名行為とか言われたりして、たしかに葛藤はあった。でも被災地の人々が、ぼくらの行為に理解を示してくれたお陰で、入口はシンプルに『手伝いたいから』でいいのかなって思えるようになった。停滞しても何も生まないし、売名行為とかそういうことを考えていたら何もできない。行動しながら考えて、ベストなやり方をとっていけばいい。そう思ったから、活動の継続を決めた」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――震災後に音楽活動に関してメンバーの間でもめたそうですね。</strong></p>
<p>「震災から１０日後のライブで黙祷するかどうかでもめたことがあった。普通にライブすることに抵抗があるという意見と、お客さんを楽しませることが優先だという意見があって対立した。話し合った末、黙祷は単なる自己満足であって、ステージにのぼってやることじゃないということでまとまり、やらなかった」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――音楽活動は被災地の支援に役立つと思いますか。</strong></p>
<p>「正直、そんなに役立ってないんだよね。知名度もなくて寄付金の額も少ないし、続ける意味あるのかなと迷う時期もあった。でも大事なのってきれいごとじゃなくて、やってることだと思う。『自分はこんな活動やってます』『こう思いました』とかをtwitterやライブで発言することで、誰かが何かを感じていくと思う。実際、ライブのあとで『自分にもできそうな気がします』と共感して行動を起こす人もいて、すごくうれしかった。この震災も、時間が経つにつれて忘れられていくと思う。でも、東京の人たちが震災について少しでも長く考えてくれるように、現在は活動している」</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――今後の音楽を通じた支援活動の予定は。</strong></p>
<p>「やっぱりミュージシャンをやっている以上、音楽が一番自分の強みだと思ってる。だから今後も音楽での支援活動を続けていきたい。何十年後かに今を振り返って、後悔しないよう自分なりに一生懸命にやりたい。音楽で世界は変えられないと思うけど、音楽は人が動くきっかけになると思う」</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5><strong>取材を終えて</strong></h5>
<p>&nbsp;&nbsp;様々な葛藤や今後の目標を話す田中さんの口調は、穏やかでありながらも、静かに熱いメッセージが胸を打つ。３．１１以降、多くの人々が変化を強いられている。そんな中、停滞するのではなく、模索しながら前進しようと努力する田中さんとの出会いは、筆者にとって大きな刺激となった。田中さんの音楽が今後、多くの人にとって「人生のBGM」になり、人と人とをつなぐことを期待している。</p>
<p style="text-align: right;"><strong><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" />&nbsp;&nbsp;</strong></p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>学生街の小さな喫茶店～コーヒー豆に注ぐ想いを聞く～</title>
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    <published>2012-03-01T08:52:31Z</published>
    <updated>2012-03-16T10:51:01Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;カランカラン。早稲田大学正門から徒歩1分。鈴の音と共に古...]]></summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;カランカラン。早稲田大学正門から徒歩1分。鈴の音と共に古めかしい扉を開くと、優しいコーヒーの香りとジャズの音。こぢんまりとした店内やきしむ木製の階段が、懐かしさと心地よさを感じさせる。「Caf&eacute; &amp; Beer ぷらんたん」の自慢は、昭和レトロモダンを感じさせる建物と、5代目オーナーの前田広喜さん（56）が、味が偏らないよう飲みやすさを考えて挽（ひ）いた自家焙煎のコーヒーだ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;「ぷらんたん」はフランス語で「春」という意味。61年前の開店時から、オーナーは変わっても同じ名前、建物もほぼそのままだ。NHKの番組「ブラタモリ」では2009年の第1回放送に登場し、テレビ東京の番組「東京レトロ遺産」でも紹介された。「せっかく歴史あるお店なのに、自分の代で壊してしまうのはもったいない」と、前田さんは1996年、建物と名前をそのままで引き継いだ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;前田さんは早稲田大学理工学部を卒業後、サラリーマンとして働いたが、店を手伝う妻の美智子さん（58）によると「人に使われる仕事が性に合わない、一匹狼みたいな人」。大学時代に美智子さんとの喫茶店巡りが好きだったことや、友人からの誘いもあり、25歳で脱サラした。しばらくは実家の家業を手伝ったが、その後6年間、中野のコーヒー豆焙煎ショップで知識と技術を磨いた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;はじめはうまくいかない事も多かったという。コーヒーの味は焙煎でほぼ決まる。一番難しいのは、味を均一にすること。季節によっては豆の水分調整が必要になる。味を確かめるため、焙煎の前日から刺激物を食べないそうだ。「豆は生き物。鮮度が命。冷暗保存はもちろんのこと、焙煎は小まめにしないと、すぐに味や香りが落ちる」と熱く語る。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;前田さんが「ぷらんたん」のオーナーになった理由の一つは、早稲田が学生や教授、買い物客など、様々な人が行きかう街であることだ。だが、学生時代にあった古い建物はビルになり、喫茶店の数も減ったという。「携帯電話が普及したでしょ？　昔は、友達も恋人も、待ち合わせは喫茶店だった。喫茶店はいろんな人に出会える場所でもあったんだ」。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;今も「ぷらんたん」では、時々夜に、前田さんのバイク仲間や学生、映像監督、地方議員らが集まる。違う分野の人が顔を合わせると刺激があって面白い、との前田さんの考えからだ。前田さんを囲んでダーツをしたり、お酒を飲んだり、おしゃべりを楽しんだりする。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;いずれ、次男（24）に店を継いでもらおうと考えているが、まだその時期を決めていない。「コーヒーの知識や技術面では、まだまだ息子に任せられない。引き継いでも、豆はしばらく僕が煎るだろうね」</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
    </content>
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    <title>児童養護施設の子供たちに心のケアを</title>
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    <published>2011-12-13T08:52:50Z</published>
    <updated>2012-03-16T07:27:17Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;キャッキャッと子供たちの笑い声が上がり、一緒に遊ぶスタッ...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;キャッキャッと子供たちの笑い声が上がり、一緒に遊ぶスタッフが優しい笑顔を見せた。ここは埼玉県川越市にある児童養護施設、「埼玉育児院」だ。児童養護施設には、両親の離婚や死亡、行方不明など、様々な理由から家族と暮らせなくなった子供たちが預けられている。養育拒否や児童虐待も少なくなく、多くの子は心に傷を抱えている。</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;埼玉育児院では現在、2歳から18歳まで62人の子供たちが生活している。「僕も一緒に洗濯する！」と、職員の後ろに笑顔でついて行く幼い男の子が いた。男性スタッフと手をつないで、楽しそうに洗濯物を運んでいる。園内には8棟の木造一軒家があり、一つの家に6人から8人が暮らす。食堂が一カ所あ り、決められた食事時間に子供たちやスタッフが集まってくる。門限や入浴は家ごとにルールがある。なるべく中学生以上は個室にしたいが、人数が多くて実現 できていないのが現状だ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;院長の国分光雄さん（６３）によると、一番の課題は、「自分が悪い」「自分に非があって入所した」と思い込んでいる子供たちの意識を変えることだ。 何かトラブルがあったとき、近所や学校、親戚、そして親も、理解しようとするのではなく、責めるだけになりがちだ。「傷が深いから、『あなたは悪くない』 と伝えても子供たちは納得しない。『あなたは悪い子じゃない』と、言い聞かし続けるしかない」</p>
<p>&nbsp;&nbsp;中には、ふらふらして学校へ行かなかったり、飲酒や喫煙をしたりといった問題を起こしてしまう子供もいる。新任職員を試すように、包丁を向けた子も いるという。「その事については叱りましたが、子供達も家庭でそんな経験をたくさんしてきているんです。職員としては、うろたえずに愛情を持って対応する のが基本です」と、元スタッフの女性は話す。そのような行動は、ＳＯＳを求めるサインなのだという。国分さんは、「なるべく話を聞いて理解してあげること が大切です」という。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;しかし、実際は人手不足により、スタッフがなかなか全員に目をかけられない。昭和30年代に、子供6人につき職員１人という政府の人件費補助基準が できた。それをもとに、非常勤を含めて３７人いる職員のローテーションを組むと、１０人以上の子供に常に１人の職員しかいないのが実態だ。収入のほとんど を国からの補助金に頼る以上、基準以上の人数を配置するのは難しい。また、職員が定着しないことも課題だ。人件費の補助金額が子供の人数に応じて機械的に 決められ、職員の経験は考慮されず、給料を上げられないためだ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;スタッフは、勤務外や休みの日にも子供と過ごす時間を作っているという。「本当は一人一人にもっともっと愛情をかけたいのですが、時間と体力的に難しいのが現状です」。スタッフ達の想いだ。</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>※この記事は、11年度J-Schoolの授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>母国の姿を隠さず、誇張せず</title>
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    <published>2011-12-09T11:15:22Z</published>
    <updated>2012-04-17T10:07:50Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 映像制作プロダクション会社代表・張景生さん  &nbsp; １９８０年代、中国...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<!-- 		@page { margin: 2cm } 		P { margin-bottom: 0.21cm } -->
<p><span style="font-size: large;"><strong>映像制作プロダクション会社代表・張景生さん</strong> <br /> <br /></span>&nbsp; １９８０年代、中国からの日本への留学ブームが起きたころ、一人の若者が内モンゴルから東京へやってきた。彼は亜細亜大学大学院の修士課程で学び、ＮＨＫの中国関係ドキュメンタリー制作チームのアルバイト・スタッフとなった。以来、現在まで、彼は独自の視点で数多くの中国関係映像作品を作ってきた。留学生からベテランのドキュメンタリー・プロデュサーまでの道のりはどんなものだったのか。そして彼自身のこだわりとは。映像制作プロダクション会社の泰山コミュニケーションズ代表・張景生さんに会った。</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>――日本に来たきっかけは何でしたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「最初に来たのは１９９１年です。当時は留学じゃなくて、内モンゴル大学で日本語教師をやっていました。日本の国際交流基金が中国で主催した全国規模の教師研修プログラムに参加して、初めて１カ月日本にきた。本格的に日本で留学できたのは、１９９３年にある日本の財団法人が中国で行った人材支援プロジェクトの選抜試験に合格できたからです。学費も家賃も財団から支給され、貧しい農村出身の僕にとって本当にとても良いチャンスに恵まれました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――なぜ日本に留学しようとしましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「この問い答える前に、まず僕が日本語を勉強するきっかけについて少し説明しましょう。１９７２年に日中国交正常化してから、両国の国内においてお互いこれまでの不愉快なことを忘れて、新たな友好関係を築いていこうという意欲が非常に高かった。そんな状況の中で、僕は大学受験の時に英語専攻じゃなくて、当時まだ中国で始まったばかりの日本語学科にしました。だから実際日本へ行くまえから日本語を勉強した経験があって、日本文化に関する著作もたくさん読んでいました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――日本の最初の印象はどうでしたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「飛行機の中から町を見下ろし、夜でもあんなに明るい街を見て、電力が非常に充実している国だなと思いました。当時の中国はまだ電気照明が導入されたばかりで、まるで宝石箱のような夜景を見下ろして、はじめて『発展国』の概念を理解した気がしました。（笑）あとは、やはり街の清潔感や、日本人の几帳面なところなど、ほかの中国人と同じ印象がありましたね」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――最初に関わった中国関係のドキュメンタリーは何ですか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp; 「１９９２年の鄧小平の南巡講話は中国で新たな改革ブームを起こしました。中国社会で起きたさまざまな変化や発展を描こうとして、１９９４年から約１年、ＮＨＫは『中国～十二億人の改革開放』というスペーシャルドキュメンタリー番組を放送しましたが、これの制作に関わったのが最初です。僕は翻訳通訳のアルバイト募集に応募して、それの宿題として出した『鄧小平文献』第３巻の翻訳がプロデュサーに気に入れられ、そのままチームの中で通訳の仕事をするようになりました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――テレビ局の中に入って、印象的なエピソードはありますか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「ちょっとした笑い話がありましたね。番組制作について全くの素人の僕は初めてテレビ局の編集室に入った時に、思わず『こんなにいっぱいテレビがあるんだ』とつぶやきました。その場にいたみんなが大爆笑して、その時の上司が僕の肩を叩きながら『張さん、今日はあなたに第１回の授業から教えよう。これはテレビじゃなくてモニターというんだよ』。あの時は本当になにもわからなくて大変でしたよ」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――制作現場で、どんなことを感じましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「最初はどうして中国の貧しくて暗い面しか撮らないんだと怒っていましたよ。いや、あれは怒りなんかよりも、恥ずかしかったですね。経済発展が進んでいる地域にはすでにきれいな高層ビルが出来ていて、車もたくさん走っていましたが、実際撮影する時は破れた服を着る貧しい人や、舗装していなくて雨が降ったらすぐ泥まみれになる道路、あとは道端で大声でけんかをする人々などばかり撮っていました。全員日本人の制作チームの中で一人だけ中国人として、自分の母国のこのような現実を映像にしていく。さらに日本の視聴者に観られることを思うと、本当に情けない気持ちでいっぱいでした。最初はね」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――そのあと、変化がありましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「そうですね。作品を作っているうちに、自分は隠すこともなく、誇張することもない『ドキュメンタリー』というものを作っていることを自覚してきました。さっき話した貧しい人たちのことも、整備されていない町のことも、全部当時の中国においてごく普通の現実であって、逆に私が最初撮って欲しかったきれいなビルや車こそ、いわゆる特権階級と呼ばれるわずか１％の人たちのことにすぎなかったのです。本当の事実は痛々しいかもしれないけれど、それを忠実に記録して、発展に没頭している国にいる人々に対して問題を提示し警告することこそ、僕が一人の中国人として母国のために一番できることだと思いました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――２００７年から０８年に放送された「ＮＨＫスペシャル　激流中国」を含め、張さんはこれまで多くの中国の農村問題に関する映像作品に関わってきましたが、取材や撮影などを行う時にどうやって出演者とコミュニケーションを取っていましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「僕は『激流中国』を作る前に、チャン・イーモウ（張芸謀）監督と高倉健さんの映画『単騎、千里を走る』の制作に参加しました。この映画も中国で一般の農民にたくさん出演してもらいまして、ドキュメンタリーに近い部分がありました。その時に僕はチャンさんから農村題材の撮り方についていろいろ学びました。それは取材相手と仲間意識をもち、一緒に作品を完成させていこうという思いを彼らに伝えることです。誰だっていきなりカメラのもった知らない人に日常生活の隅々まで撮られたくないです。だから僕たちは出演者に『みなさんの悲惨な生活を撮りたいのではなく、中国社会が今抱えている問題を忠実に記録したい』ときちんと伝えておきました。そうすると皆さんからいろいろな協力をもらえるようになりました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;取材を終えて</strong></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;１８年間の日本での生活のうち、１７年間を中国に関するドキュメンタリーの制作に関わってきた張さんは、まさに客観的な視点で母国を見守ってきたメディア人の代表だと思う。彼の言う通り、本当のことを多くの人にしっかりと伝えることこそ、メディアで発信する人の一番の使命でだ。私も彼の背中を見て、いつか自分の目で確かめた本当の中国を世界に発信したいと決心した。</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>「世界一周」が未来を開いた</title>
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    <published>2011-11-17T00:00:10Z</published>
    <updated>2012-04-17T10:08:15Z</updated>

    <summary>2009年5月から12月まで22カ国に青春の足跡を残した濱田真里さん（23） は...</summary>
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        <name>学生</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>2009年5月から12月まで22カ国に青春の足跡を残した濱田真里さん（23） は、現在早稲田大学教育学部の4年生だ。大学3年のとき、1年間休学して旅に出ることを決断した。様々な国での体験を通じて、学生時代を満喫し、将来への繋がりができたという。世界一周の旅は、濱田さんの人生に何をもたらしてきたのか。彼女の変化について聞いた。</p>]]>
        <![CDATA[<p>――旅行のきっかけは何でしたか。</p>
<p>「大学２年の時、カンボジアに教員を派遣する教育支援活動をしました。セミナーを開いてカンボジアの現状などを伝えるのです。伝えることがすごく好きだから楽しんだけれど、ちょっと考えるとそれは私の言葉じゃないですね。当時私は現地に行ったことがなかったし、それまでカンボジアに興味を持ったこともありませんでした。だから、全く現地に行ったことがないのにそれを伝えるって、違和感がありました。やっぱり自分の目で見て自分の言葉で語りたい。現場主義ですね」</p>
<p>――なぜカンボジアに関する教育支援活動を始めたのですか。</p>
<p>「『マイクロソフトでは出会えなかった天職』という本の影響です。作者のジョン・ウッドはマイクロソフトで重役になった人です。その彼が休暇でネパールに行った時、小学校に本が数冊しかないことに気付きました。その後また行って、図書館を作ろうと。作るうちに、幸せな自分を感じました。貧しい人たちに本を送ることで、彼の考え方が変わっていくのです。会社を辞めて社会企業家として活躍している彼にすごく共感を覚えて、こういう生き方をしたいと思って、興味を持ちました」</p>
<p>――両親は世界旅行に賛成しましたか。</p>
<p>「最初は反対されました。親を説得するために、自分で資料を集めてプレゼンをしました。旅するときのルートとか連絡先とか、全部自分で調べました。親に反対されないように、『これ何？』と聞かれたら、『これはね』と言えるように、全部準備しました。プレゼンをした結果、父が『そんなにやりたいだったら、行ってきなさい』と言ってくれました。父が母を説得してくれて、行くことができました」</p>
<p>――旅行の資金はどうしましたか。</p>
<p><strong></strong>「大学２年の時にアルバイトを５つぐらいやって、３０万円ほど貯めました。でも、私の計画した旅行は１３０万円かかります。１３０万円って、私のような大学生には無理でした。それで、親の力を借りました。親に誓約書を書いて、これだけやりたい、でもお金が足りないから、出してください、と。社会人になったら、絶対に返します」</p>
<p>――旅行を通じて、自分はどう変わったと思いますか。</p>
<p><strong></strong>「私はそれまで自分の価値観の軸だけで、日本という軸だけで『幸せ』を定義していました。貧しくて苦しんでいる人たちを不幸な人と扱いました。でも現地に行って、人って、いろんな生き方をしていいかなと思いました。別に日本でこういうきれいな服を着て、おいしいご飯を食べるだけが幸せじゃなくて、アフリカで、何もなくても、月を見ながら、家族や友達と美味しいお酒を一杯ずつ飲んだりすることもすごく幸せだし、本当に自由だなと思いました」</p>
<p><img class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2011/11/r-thumb-200x266-1448.jpg" alt="r.jpg" width="200" height="266" /></p>
<p>&nbsp;――旅行から帰った後、自分の将来を心配しましたか。</p>
<p>「帰国してから就職する前の１年間ずっと悩み続けて、自分にとっては悩んだ１年でした。旅行に関する講演会やイベントに参加したりしたけど、日本の社会で旅行の経験をどういう風に生かしていくか、今後の生き方で迷いました。でも一人で悩むのではなく、人に会って悩みました。自分の考え方にこだわらず、いろいろな人の話や意見を聞きました。視野を広げてから進路を決めようと思ったからです」</p>
<p>「人は、自分にとって都合のいいものしか吸収しないです。ほしいものを見つけることも大事だけど、たまたまそれにぶつかることもあります。ちょっと人から自分と違うものを取り入れたら、それがほしいものかもしれません。そのぶつかる瞬間に化学反応が起きて、自分のやりたいことをパーっと見つかります」</p>
<p>――世界を体験して、海外で就職しようとは思いませんでしたか。</p>
<p>「就職活動をしていた間、すごく悩んでいたのは、海外に出て行くか、それとも日本企業で働くか、ということでした。５月に日本のＩＴ系企業から内定をいただいて、どうしようと思って。海外にいきなり飛び込むこともすごくやりたいと思いました。カンボジアではビジネスという視点で見ていなかったので、カンボジアでビジネスをしている日本人女性にも会いに行きました。現地の様子を見て、話を聞いて、日本人として日本で働いても、海外との交流の機会があり、情報交換もできると思ったので、日本で就職することを決めました」</p>
<p>――チャンスがあったら、もう一度世界旅行をしようと思いますか。</p>
<p>「チャンスがあってもなくても、人生でもう１回やります。その時見えるものって、今とは変わると思います。私の今回のテーマは、途上国とか、先進国とか、世界の現実を見るということにフォーカスしていた。でも、今度は一人旅じゃなくて、誰かと行く旅をしたいです。例えば、結婚して夫と一緒とか。大事な人と世界を楽しみたいです。両親に世界一周をプレゼントするのも夢です」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>取材を終えて</p>
<p>私の先祖は、儒教の「中庸の道」に基づいて子孫の教育方針を設定した。本分を守る生き方は今までの人生の軌跡だった。私にとって、家族の決定に従うことは、リスク回避の無難な策だ。一つ扉が開くと、将来の風景が一望のもとに見渡せる。生まれてからずっとそのような環境で育てられてきたので、そのことに違和感がなかったが、知らず知らずのうちに冒険精神を失ってしまっていた。濱田さんに会って、「違う自分」につながる扉を無視してはいけないことに気付いた。そして、「何とかなる」という楽観的な態度に感心した。</p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; <img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>]]>
    </content>
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    <title>「日本人になる」をめざす帰国子女</title>
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    <published>2011-11-16T14:43:26Z</published>
    <updated>2012-04-17T10:08:51Z</updated>

    <summary>筑波大学大学院でシステム工学を学んでいる徳田勇也さん（22）は、父親の転勤をきっ...</summary>
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        <name>学生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>筑波大学大学院でシステム工学を学んでいる徳田勇也さん（22）は、父親の転勤をきっかけに幼稚園から高校までの大半の期間をフランスとスウェーデンで暮らした帰国子女だ。見た目は日本人学生と変わらないが、性格はヨーロッパ人に近く、まわりの学生は自分を日本人として扱っていないと感じている。彼は自分をどう認識するのか、海外生活経験、さらには留学生との共通点について、聞いた。</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>――幼稚園の時にフランスに移りました。友だちはできましたか。</strong></p>
<p>「フランス語がわからないので、最初は喋れませんでした。偶然、幼稚園に日本語ができるフランス人の先生がいて、その人と話しながら、ちょっとずつ学んでいった。最初にクラスメートから学んだフランス語は&rdquo;Ce n&rsquo;est pas ma faute.&rdquo;でした。日本語では『俺のせいじゃない』です。なぜかというと、あっちでは自分の身は自分で守らなきゃいけないからです」</p>
<p><strong>――18歳で日本に戻りました。驚いたことは何ですか。</strong></p>
<p>「愛想がないことです。ヨーロッパだと、転校生が入ってくると誰が先かみたいに、仲間に入れるために、みんなものすごく話しかけてきます。でも日本に帰ったとき、日本の学生たちは普段通りで、非常に驚きました」</p>
<p><strong>――日本人学生との間に何か異なっていることに気づきましたか。それは何ですか。</strong></p>
<p>「長年のヨーロッパ生活で、自分の性格は非常に外向きで、好き嫌いがはっきりするようになりました。積極的に行動する性格も持っています。一方、まわりの日本人学生は無関心や面倒くさがりを表すことが強く、『こういうのやろうよ』と誘っても、『え？　面倒くさいよ』と言い返されます。例えば、大学４年間をかけて、一緒にバスケットボールをやろうと積極的に声をかけてきましたが、一緒に遊べる人は誰もできませんでした。日本人の『暗黙の常識』にぶつかりました。みんなは『そんなものはないよ』と言いますが、どう考えても、自分が浮いちゃっています」</p>
<p><strong>――いま、まわりの日本人学生はあなたを日本人だと認めると思いますか。</strong></p>
<p>「日本人として扱っていないと思います。でも逆に、何か変なことをしても、帰国子女だから許してくれるという利点もあります」</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a rel="lightbox" href="http://www.spork.jp/tokuta.jpg"><img class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 10px 10px 20px;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2011/12/tokuta-thumb-200x266-1493.jpg" alt="tokuta.jpg" width="200" height="266" /></a></span>
<p><strong>――徳田さんは自分を日本人だと思いますか。それはなぜですか。</strong></p>
<p>「自分は日本人だと主張します。親が海外へ連れていった理由はあっちの教育を受けさせたかったから。外国人になるためではなく、外国人に勝る日本人になるためです。負けない日本人になることは自分の最終目標だと本気で思っています。僕は自分が日本人だと自覚しているものの、周りは認めてくれませんが、それはかまわないです。自分は自分です。他人は自分のことをバカと思っても、自分はバカになるわけではないですから。それと同じで、他人から日本人だと思われなくても、自分が日本人だと思えば、日本人です」</p>
<p><strong>――なぜ自分は日本人だと強く主張したいのでしょう。</strong></p>
<p>「多分日本で生まれたということが大きいですが、何だかんだ言っても日本が好きだからだと思います」</p>
<p><strong>――徳田さんが考える「日本人」の定義は？</strong></p>
<p>「血とか国籍とかそういうものに関係なく、日本の良き心を知り、日本の良い面も悪い面も受け入れ、その上でどこの国に行っても自分が日本人であることに誇り思える人のことだと思います」</p>
<p><strong>――今、ドラえもんが現れて、タイムスリップが出来るとします。昔にもどって、ずっと日本で暮らすことと海外で暮らすことを選べるなら、どちらにしますか。</strong></p>
<p>「正直に言うなら、日本でずっと暮らすことを経験したいですが、でも１回しか選択できないなら、やっぱり海外の生活を経験したいです。もう１回チャンスがくれれば、もっと海外でいっぱい勉強したいからです。また、自分自身の境遇が気に入っているので、海外でよかったと思います」</p>
<p><strong>――今後、日本国内と海外と、どちらに就職したいですか。</strong></p>
<p>「自分の境遇を最大限に活用したいので、日本の企業に入ったとしても、海外に関係がある企業で積極的にやりたい。就活の時に『俺は海外で働けるので、海外で戦わせてほしい』と積極的にアピールしてきたいです」</p>
<p><strong>――帰国子女と同様、留学生も日本社会への適応には苦労しています。どういう工夫をしたらいいですか。</strong></p>
<p>「まず、よく日本人と接して、日本社会を勉強することが大事です。留学生同士で集まっていると、それは学べないでしょう。日本人らしい『空気』は気にしなくていいと思います。無理に気にしようとすると、逆にうまくいかなくなることがありますから。最後は、自分が正しいと思うことをしっかり貫き通すことが大切だと思います」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>取材を終えて</p>
<p>徳田さんはこれまで会った帰国子女とは違った。外国風の自分を無理に隠したりほかの日本人学生の振りをまねしたりするのではなく、「自分の境遇を最大限に利用したい」と考え、主張する人だ。留学生の立場から見ると、彼の異文化適応に対する考え方には同感できる。日本の事情を学びたいなら、留学生同士でかたまっていたら難しい。日本という異文化に上手に適応するとともに、個性を守ることも大事である。これは「同を求め、異を認め」という考え方である。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>プロフィール</h5>
<p>&nbsp;</p>
<p><span style="font-size: medium;">徳田勇也</span></p>
<p><span style="font-size: small;">1989年に日本で生まれ、茨城県出身（22歳）</span></p>
<p><span style="font-size: small;">経営コンサルティングの仕事を勤める父親の海外転勤をきっかけに、５歳から海外での生活が始まった。</span></p>
<p><span style="font-size: small;">5歳～9歳　　フランス当地の幼稚園と小学校前半</span></p>
<p><span style="font-size: small;">9歳～10歳　　一年だけ日本の小学校に入った</span></p>
<p><span style="font-size: small;">10歳～18歳　スウェーデンのインターナショナルスクールに入った</span></p>
<p><span style="font-size: small;">話せる言語：日本語、英語、フランス語、スウェーデン語</span></p>
<p><span style="font-size: small;">筑波大学　システム情報工学研究科１年次　知能機能システム専攻</span></p>
<p style="text-align: right; ">&nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp; &nbsp;<img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right; ">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>見えなくなって、世界を知った</title>
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    <published>2011-11-16T03:01:41Z</published>
    <updated>2011-12-22T11:51:36Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;都内で鍼灸院を営む内田勝久さん(４３)が視力を失ったのは...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;都内で鍼灸院を営む内田勝久さん(４３)が視力を失ったのは２３歳のときだった。だが、その後の活動は多彩だ。鍼灸師として働く一方、ギタリストとして数百人規模のソロコンサートを行い、失明とともにはじめた陸上競技では高跳びで世界視覚障害者選手権大会に出場し、３位を記録したこともある。内田さんのユニークな活動の源には何があるのか。</p>]]>
        <![CDATA[<p><strong>――視力を失ったのは、どのような経緯でしたか。</strong></p>
<p>&nbsp; 「僕の両親は二人ともに視覚障害者で、遺伝性の病気でした。子供のころから徐々に悪くなり、23才のときに完全に見えなくなりました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――衝撃は大きかったですか。</strong></p>
<p>&nbsp; 「それほど大きなものではありませんでした。いずれは自分もそうなることが分っていましたので、準備万端、ではありませんが視力が落ちてきたときには、杖を使って歩くようにしていました。むしろ失明した当時は上京したばかりで、楽しいことに忙しかったですね」</p>
<p>&nbsp;</p>
<span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a rel="lightbox" href="http://www.spork.jp/20110710NRE%E8%AA%B2%E9%A1%8C07%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%92%8C%E9%9B%85_%E8%87%AA%E7%94%B1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%92%E3%82%99%E3%83%A5%E3%83%BC%EF%BC%8F%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%91.JPG"><a rel="lightbox" href="http://www.spork.jp/20110710NREphoto_upload21.JPG"><img class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2011/11/20110710NREphoto_upload21-thumb-200x299-1457.jpg" alt="20110710NREphoto_upload21.JPG" width="200" height="299" /></a></a></span>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――楽しいこととは。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「始めたばかりの陸上競技と音楽活動です。ぼくは長崎の田舎で生まれ育ちました。長崎にはまず来ない外国人アーティスト、たとえばポール･マッ カートニーとかスティービー･ワンダーのコンサートも、東京では聴きに行ける。うれしかったですね。どうしても行きたいと思えばひとりでも行きました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――なぜ音楽をはじめたのでしょう。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「小学校５年生のとき、通っていた盲学校の創立８０周年の記念に、クラシックギタリストの山下和仁さんが来たんです。それを見たとき、たった六 本の弦でこれだけの音を出せるんだ、と感動しました。それでギターを弾き始めたんです。２０年後の、創立１００周年のステージには今度は僕が呼ばれて演奏 しました。そのときは、本当にギターをやっていて良かったなと思いました」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――音楽を通して伝えようとしたメッセージは何ですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「不可能はない、ということですかね。僕は『戦場のメリークリスマス』のようなピアノ曲をギターにアレンジして演奏していたのですが、鍵盤の多 いピアノの曲を弦六本のギターで表現するのは大きなハンディが伴うんですね。しかも僕は特別な調弦をせずに、どこにでもあるギターでぱっと表現したかっ た。そういう意味で、不可能はない、ということです」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――何が不可能を可能にすると思いますか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「何でしょうね。ギターのうまい人はいっぱいいます。でも人と同じことをやっていても、自分のところには出番が回ってきません。人ができないことをやって初めて評価される。それで、あまり人がやらないことに手を出す。そういうことではないでしょうか」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――陸上競技をはじめたきっかけは何でしたか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「２０年前、友人に連れられてトレーニングセンターに行ったときです。車椅子の陸上選手がウエイトトレーニングをしていました。その人は体温が 上がるようなことはやっちゃいけないと言われているはずなのに、氷で体を冷やし扇風機で風を当てて練習していた。そこまでしてやる必要はないことかもしれ ない。でも、そこまでしてやりたいと思ってる。それがとてもかっこよかった」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――なぜ陸上競技の中でも視覚障害者には難しい高跳びや幅跳びを選んだのですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「たしかに高跳びや幅跳びは、危ないからやっちゃいけない、といわれるような競技です。僕は幅跳びのときは３５mの助走を取って１７歩目で踏み 切るわけですが、音だけを頼りにやっています。砂場の前でパートナーがたたいてくれる手拍子の合図に向かって走り、跳びます。目の見える人には想像できな いことかもしれません。三段跳びになるともっと難しい。それでもやるのは、ギターと一緒です。不可能はないと思ってるからです」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――世界大会で２度、銅メダルを獲得しました。何を感じましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「まだまだ、ということですかね(笑)　そして次は頂点しかないな、と」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――内田さんにとって「世界一」って何ですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「自己満足ですね。金メダルをもらったからといって、お金をもらえるわけではないですし、社会的に大きな変化が起こるわけでもありません。だからもう、自己満足、それだけです」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>――見えなくなったことで得たことはありますか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「海外に行って現地を知ることは、見えなくなったからこそだと思います。もし見えていたら、たぶん海外には行かなかっただろうし、長崎からも出 なかっただろうと思います。逆に見えていたらもっといろいろなことができたかというと、そうは思わないですね。見えなかったからこそ、できたことの方が大 きかったとかなと」</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「よく障害者か、そうでないかという話になりますが、五体満足の人が皆しあわせかというと、不満のある人もいます。だから僕は、結局、一緒なん だと思います。頑張っている人、頑張っていない人。やっている人、やっていない人。本人が本人の人生を楽しんでいればいいですし、本人がしあわせ一杯で最 高だと思っていれば、周りがどう見ようと、それでいいと思うんです」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>取材を終えて</p>
<p>&nbsp;&nbsp;内田さんを取材していて感じたのは、「生き方」への自然さだった。目が見えていないことや障害に対して、とかく先入観を持って接してしまいがち だが、内田さんから返って来る答えは苦労話でも努力話でもなく、どうやって自分らしく生きていこうか、というひとりの「本気で生きる人」の答えだった。目 が見えても見えてなくても、結局は「どう生きるか」は自分次第なのだと思った。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>
<p><img style="float: right;" title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>&nbsp;&nbsp;※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>人のためは自分のため</title>
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    <published>2011-11-12T13:23:16Z</published>
    <updated>2012-04-17T10:07:56Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;河田幸男さん（82）は東京都北区にある「中央公園日本語教...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;河田幸男さん（82）は東京都北区にある「中央公園日本語教室」でボランティアをしている。私は2008年にこの教室に１年間通い、知り合いになった。ここには高齢者のボランティアがたくさんいる。教室で楽しそうに外国人と喋っている彼らを見ているうちに、もっと彼らについて知りたくなり、河田さんにインタビューした。</p>]]>
        <![CDATA[<h5><span style="font-weight: normal;">ボランティアは新しい生きがい</span></h5>
<p>&nbsp;<strong> ――日本語教室のボランティアを始めたのはいつからですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「20年前ぐらいかな。北区の日本語教室は1992年から始まっていて、僕が入ったのは93年ごろだった」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――教室では何を教えるのですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「文字通り、日本語を教えるけれど、具体的な内容はボランティアが決めるのではなく、来る人の希望に応じて。会話だけ練習したい人もいれば、漢字を読めるようになりたい人もいる。外国人が日本語教室に初めて来たとき、僕たちはまず彼らの日本語のレベルをチェックして、勉強したいことを聞く。彼らの希望によって、ふさわしいボランティアをつける」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><strong>&nbsp;&nbsp;――河田さんが日本語教室のボランティアを始めたきっかけは何でしたか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「定年後、はじめは友だちに誘われて英会話のグループに入った。たまたま、地元の文化センターで日本人ボランティアが外国人に日本語を教える日本語教室というものがあると聞いて、そこに行けば外国人とコミュニケーションができると思って、参加してみた」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;<strong>&nbsp;――日本人でさえあれば、日本語教室のボランティアになれますか。</strong></p>
<p align="left">&nbsp;&nbsp;「やはり、日本語の教え方の勉強が必要だ。日本語教室はおしゃべりだけではなく、外国人に日本語を教える場所だから、正しくわかりやすく日本語を教えないと。たとえば、テレビや放送大学などにはそういう日本語の教え方に関する授業がある。僕がその時参加したのは国立国語研究所の講座だった。あそこには日本語を教える有名な先生がいて、週に3回ぐらいの講座があった。３か月ずっと通い続けて勉強し、卒業証書と修了書をもらった」</p>
<p align="left">&nbsp;</p>
<p><strong>――そういえば、日本語教室のボランティアは日本語の先生でもありますね。</strong></p>
<p>&nbsp; 「ボランティアは日本語を教えるが、ボランティアと来ている人との関係は先生と生徒というよりも仲間に近い。同じ目標を持っていて、雰囲気を一緒に味わっている人たち」</p>
<p>「先生のつもりで日本語を教えたい、とだけ考えている人は長続きしない。前に言ったように教える内容はボランティアが決めるわけではないから。日本語教室と言われるが、ボランティアたちがやっているのは授業というよりもコミュニケーションだ。勉強者の目標が達成するように、お互いにコミュニケーションをしながら勉強していく」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;<strong>&nbsp;――そのコミュニケーションは言葉のコミュニケーションだけではないですよね。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「そう。コミュニケーションを行っているうちに、言葉の勉強だけではなく、お互いに国の文化などを知ることもできる。また、そういうコミュニケーションをしてこそ、来てくれる人に日本語の勉強を楽しんでもらえる。誰でも自分の国の話になると、進んでしゃべるようになるから」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p><img class="mt-image-left" style="float: left; margin: 0 20px 20px 0;" src="http://www.spork.jp/assets_c/2011/11/20111024kawada-thumb-200x150-1441.jpg" alt="20111024kawada.JPG" width="200" height="150" /></p>
<p>&nbsp;<strong>&nbsp;――河田さんは20年近くボランティアをやっています。長く続けられる理由は何ですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「ボランティアは仕事でやるわけではなくお金がもらえるわけでもないから、楽しい、面白いと思えることが、長く続けられる理由だと思う。僕にとって、知らない国、行ったことのない国のことを紹介してもらうのは面白い。教えることも楽しいが、教わる楽しさが8，9割だと思う」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;<strong>――ボランティアとは人のためだけではなく、自分のためもある、という意味ですか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「そう。人のためになるとはそんなに強く考えていない。自分のためのほうが大きい。ボランティアをやって人のためになればもちろんうれしいが、教えてもらえるからこそ、長くやっていきたいと思っている。ボランティアをやることでいろいろな人と出会えるし、僕の日本語も上手になったよ」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;<strong>&nbsp;――家族は河田さんのボランティア活動を応援していますか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「応援していると思う。今日は午前10時ぐらいに家を出て日本語教室にきたけれど、そのための準備をしてくれる。女房と日本中を旅してまわったけれど、全部土曜から火曜までだった。水曜と金曜に日本語教室があるからね。僕の都合に合わせてくれている。ほんとうは、土曜出発の旅は少し高いんだけどなあ（笑）」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;<strong>&nbsp;――生きがいは時が経つにつれて変わっていくと言われます。河田さんにとって、ボランティアをやる前とやった後の生きがいは変わりましたか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「ボランティアをやって、新しい生きがいが見つかった。ボランティアをやる前、つまり定年する前の生きがいは家族だったと思う。家族のために一生懸命働いていた。定年してからは、日本語教室のボランティア活動が新しい生きがいになった。毎週、日本語教室での出会いを楽しみにしている」</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;&nbsp;<strong>――ボランティアをやってない自分を想像したことがありますか。</strong></p>
<p>&nbsp;&nbsp;「もう死んでいるかな（笑）。日本語教室のボランティアの仕事はお金をもらわない仕事であり、定年後の新しい責任や目標とも言える。ボランティアをやっているほうが生きている感じがする。元気でいられるし、日本語教室で若い人たちとやりとりすることで、今の世界がどうなっているかもわかる。新しい世界や新しいアイディアに接することができるのは楽しいね」</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5><span style="font-weight: normal;">取材を終えて</span></h5>
<p>&nbsp;&nbsp;日本へ来る前に、日本はすでに高齢化社会に入り、高齢者が総人口の約2割を占めていると聞いた。日本に来てから、電車の中やスーパーなどで70歳以上のお年寄りの姿をよく見かける。自分のイメージでは、高齢者は家に閉じこもって家族に面倒を見てもらう「社会的弱者」だった。でも、高齢者も自分なりの生きがいで楽しく人生を送っていることが今回のインタビューからわかった。</p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームE」（刀祢館正明講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>「自立」して生きる～遺品整理の現場から</title>
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    <published>2011-11-10T09:29:43Z</published>
    <updated>2011-11-10T06:19:29Z</updated>

    <summary>世界で初めて遺品整理サービスを開拓した吉田太一さん(46)。故人の住まいに残され...</summary>
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        <name>学生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>世界で初めて遺品整理サービスを開拓した吉田太一さん(46)。故人の住まいに残された遺品は、その人が「生きてきた証」だ。親族だけでは対処しきれない、膨大な遺品の整理を通して、「死」の区切りをつける。</p>]]>
        <![CDATA[<p>94年に運送業を立ち上げ、02年に名古屋市に有限会社「キーパーズ」を設立した。これまでに受けた依頼は１万件以上に上り、会社は急成長を遂げた。背景にあるのは孤立死の問題だ。死後数週間以上経過し、近隣から異臭の苦情を受けた家主や親類からの依頼をうけて現場に向かう。遺体からわくハエやウジの大群には今も慣れないという。「虫がわく現場をちゃんと&ldquo;気持ち悪い&rdquo;と思えることが人間として正常なんだ」</p>
<p>最も多いのが仕事から離れた独身男性の孤立死だ。地方から単身上京してきた男性は仕事がなくなると同時に、社会とのつながりも失ってしまう。「男はプライドを捨てられないから、&ldquo;助けて&rdquo;となかなか言えない。素直に人に甘えたり、頼ったりできるといいんだけど、これが難しい」</p>
<p>大阪府出身。何事も&ldquo;まずやってみる&rdquo;チャレンジ精神が信条だ。運送業時代に遺品整理を初めて引き受けた時、遺品の処し方に呆然とする遺族に「お任せください」と声をかけた。「誰もやりたがらない仕事だから、一番喜んでもらえた」。事務所のコルクボードには、依頼主からのお礼の手紙が無数に張ってある。</p>
<p>人助けの気持ちだけで仕事をしているわけではない。万年床で食事もインスタントのものばかり、現場で目にする「だらしない」生活スタイルに警鐘を鳴らす。自暴自棄になることなく、自立して生きることの重要性を感じてきた。各地で講演会を行い、充実した人生を送るためのアドバイスを送り続ける。</p>
<p>５月下旬、仕事で引き取った家具や家電などの遺品を、４トントラックいっぱいにつめて、東日本大震災で被災した宮城県大崎市へと向かった。「大崎市は家屋の全壊率が最も高い。会社として被災者の力になれたら」。被災者への継続的な支援を目指している。</p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</blockquote>]]>
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    <title>街と人をつなぐ 焼きおにぎり店／しょうゆの香り漂う「えんむすび」</title>
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    <published>2011-10-20T08:40:11Z</published>
    <updated>2011-12-22T11:50:22Z</updated>

    <summary>地下鉄早稲田駅から徒歩30秒。風通しの良い路地に、しょうゆの香ばしい香りが広がる...</summary>
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        <name>学生</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.spork.jp/">
        <![CDATA[<p>地下鉄早稲田駅から徒歩30秒。風通しの良い路地に、しょうゆの香ばしい香りが広がる。焼きおにぎり店「えんむすび」が、2010年９月にオープンした。メニューは焼きおにぎりしかない。一番人気のしょうゆ味を筆頭に、うめ、みそ、ゆずコショウ。月替わりの季節限定の味もある。どこか懐かしい味を求めて、昼時には近くの早稲田大学の学生らがずらりと並ぶ。</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;「えんむすび」の焼きおにぎりは、まるい形だ。店名にはおにぎりの形と、人と人との出会いを願う「縁結び」の意味が込められている。値段はしょうゆ味で１個100円。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;店を切り盛りする桜井真里子さん（61）の楽しみは、店の前のベンチに腰掛ける学生との、窓一枚隔てた何気ない会話だ。「ここに来ると落ち着くんです」。訪れる客から、そんな声をかけられる。けがをしたラグビー部員、うつ傾向の社会人、歴史好きの女子大生との交流も始まった。店は、以前からこの場所にあったかのように街に溶け込んでいる。「なぜ、学生との距離がこんなに近いのですか？」。店主の桜井一郎さん（63）に尋ねてみた。答えは「わからない。自然にやっていることだからね」。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;一郎さんの実家は、早稲田大学の近くで「松風」という食堂を営んでいた。一郎さんが小学生の頃から、多くの早大生が出入りしていた。「松風のせがれの家庭教師をすると飯を食わせてもらえるぞ」と聞きつけた学生たちが、日替わりで一郎さんの部屋へやってきた。きちんと勉強を教わったわけではなく、男と女の話、使えない英会話講座を聞かされた。それでも「人間としての幅が広がるような体験だった」という。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;だからか今も、桜井家には多くの学生が頻繁に出入りする。一郎さんが、英会話教室やパソコン教室などの仕事のかたわら、早稲田大学周辺の商店連合会の事務局長を1982年の創設当時から務め、大学と商店との仲介役をしてきたこともある。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;&nbsp;そんな学生たちに、真里子さんが家で作る焼きおにぎりは大人気だった。「ウチでは焼きおにぎりは夏の味なんです」と、真里子さんは話す。窯で炊いたご飯を腐らせないように、夏になるとおにぎりをたくさん作った。窯の底にできるおこげがおいしくて、２人の息子だけでなく、学生たちもこぞって食べた。そこで、「年齢を重ねても、毎日生き生きと働きながら暮らしたい」との思いから、夫婦でこの店を始めた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「100円のおにぎりをいくら売ったって、たかが知れている。経営は苦しい。それでも『やめないでね』と声をかけてくれる学生さんがたくさんいるんです」と、真里子さんはうれしそうに話した。</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<blockquote>
<p style="text-align: left;">※この記事は、2011年度J-School 秋学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>今なお続く「君が代』起立訴訟／元教師たちの思いは</title>
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    <published>2011-10-13T08:13:40Z</published>
    <updated>2011-12-22T09:38:00Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;卒業式や入学式で、国歌斉唱時に教職員に起立させる校長の職...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;卒業式や入学式で、国歌斉唱時に教職員に起立させる校長の職務命令をめぐる裁判が続いている。2011年7月までに、最高裁判所が10回にわたり、職務命令を合憲とする判決を出した。そんな中でも、君が代斉唱時に着席して処分された元教師たちが、訴訟を続けている。</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;東京地方裁判所（渡邉弘裁判長）で11年9月12日、起立しなかった元教師が定年後に再雇用を拒否されたことをめぐる裁判の第9回口頭弁論が開かれた。原告の一人、佐藤信夫さん（63）が法廷に立った。佐藤さんは、教鞭をとっていた都立小石川高校の04年3月の卒業式で、国歌斉唱時に着席し、戒告処分を受けた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;4年後に定年退職を迎えた時、非常勤教職員としての再雇用を希望したが、採用されなかった。口頭弁論では「非常勤教職員制度は、希望者は全員採用されるのが基本」とし、「（採用を拒否された）唯一考えられる理由は、職務命令に対する私の対応だったと思われます」と述べた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;この裁判の原告は、07～09年の3年間に都から定年後の採用を拒否された元教師24人。09年9月29日に提訴した。判決が出るまでに、あと１年ほどかかる見通しだ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;式典時に国旗を掲揚させ、教師全員が国歌を起立して斉唱させる職務命令を出すよう、都教育委員会が校長に初めて通達が出したのは03年10月23日。通達に基づいて処分された元教員らでつくる「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」事務局によると、04年3月の卒業式から11年4月の卒業式にかけて、のべ437人が通達に基づいて戒告、減給処分などを受けている。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;都教育庁指導部の担当者は取材に対し、処分について「職務命令に違反したから」とし、「以前は国旗を見えないところに掲げるなど、卒業式の様式が学校によってバラバラだったため、通達を出した」と説明した。その上で、通達は「個人の内心に触れるものではない。学習指導要領に基づいて式を清新に行い、国際社会に尊敬され信頼される日本人になるためのものだ」と強調する。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;原告団事務局長の近藤徹さん（62）は、「卒業式は誰のためのものか」と問いかける。「卒業式は生徒たちのためにある。だから、各学校で特色ある式を行えばいい。それを上から無味乾燥なものを押し付けるのは違う」と語った。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;都教委の通達をめぐる裁判は、2011年9月現在で14件が継続中だ。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>それでも、法廷で争う理由</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;「気が付いたら座っていた」。堀公博さん（63）は、自身が勤めていた都立荒川商業高校の2004年の卒業式で、君が代斉唱時に起立することを選ばなかった。2003年に都教委の通達が出ており、起立しなければ処分されることは理解していた。迷った末、起立しなかったのは、「自分に嘘をつきたくない」という思いからだ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;堀さんが今も裁判で闘い続ける理由は、教育現場における「締め付け」を感じてきたからだ。都教委が卒業式のあり方を強制的に指導することに危機感を覚えた。「裁判では、君が代や日の丸に対する歴史認識の是非を争っているわけではない」と強調する。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;教育現場での「強制」に疑問を持つようになったのは、1973年から15年間、葛飾区の盲学校で障がい児教育に携わったことが大きい。79年に養護学校が義務教育となる以前は、障がい児の就学が難しかった。教員生活を始めて５、６年は、子どもが等しく教育を受けられない環境について、教員同士で激しく議論することも少なくなかった。そんな中、堀さんは、生徒同士が知的格差を超えて、互いに支えあい、対等に接する姿に胸を打たれたという。年齢や性別、外見、考え方など、さまざまな違いを認め合える人間に育てることが教育の基本だと感じてきた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;堀さんが教員生活を通して、日の丸や君が代に対する認識の「違い」を不起立という形で表してきたのは、教育に対する信念の反映だった。2004年の卒業式の後、３月31日付で戒告処分が出た。4年後に定年退職を迎えた際、非常勤職員に応募したが採用されなかった。「面接ではマイナスの要素はなかったと思うけど･･･」と話す。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;教員生活を終えることに未練はあった。それでも「あのとき、立たなくてよかった」と堀さんは話す。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「そもそも教育は、『強制』で動かすものではない。生徒一人ひとりが持っているものを引き出すものだ」。堀さんは国旗・国歌を尊重する態度を育てることを強制する都教委のやり方に反対し続ける。03年の通達以降、都の方針に反する考えを持つ教師が「日の丸・君が代」によってあぶり出される形で解雇されることを許すわけにはいかないという。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>取材後記</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;東京地裁の前にのぼり旗がいくつも立っていた。旗には「日の丸・君が代強制反対」の文字。正直に言えば、私は少し身構えた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;私自身、都立高校の出身で「日の丸・君が代」の問題は身近なものだった。けれど、運動している方と直接お会いするのはこれが初めてのことだったからだ。ただ、教育にかける思いなどをうかがうなかで、教育についての思いがあって活動していることが伝わってきた。中でも、印象的だったのは「強制に反対している」という言葉だ。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;国旗国歌については、今でも様々な考え方がある。色々な出自の生徒もいる。そうした多様な立場や意見を生かした学校現場が作れないものだろうか。そんなことを取材中、ずっと考えていた。（北見英城）</p>
<p>&nbsp;&nbsp;私は君が代を歌い、日の丸を掲揚することを当たり前のように学校で教わってきた。そのため日の丸・君が代をめぐる訴訟で闘い続ける人々に、「なぜ、ここまで？」という疑問を感じてきた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;今回、この取材に関わり、実際に裁判を傍聴し、原告の方と直接話をすることで、教員の方は一人ひとり、自身の教育現場での経験に基づいて、「教育」について真摯に考えていることがわかった。一方で、教育委員会が2003年の通達で「強制」に踏み切っていった背景を知り、教育現場での自由と秩序のバランスをとることの難しさを感じた。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;国に誇りを持つこと、思想・良心の自由など、言葉だけでは実際にその重みは理解できない。自分たちが受ける教育がこれでいいのか、生徒自身がこの問題について知り、個々の考えを深めていくきっかけにすべきであろう。（岩井美郷）</p>
<p>&nbsp;</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
<blockquote>
<p>※この記事は、朝日新聞ジャーナリスト学校が開催した「夏季学生ジャーナリズム研修」の参加者が、「ニューズルームD（朝日新聞提携講座）」を担当した林美子講師の指導のもと、作成しました。</p>
</blockquote>
<p>&nbsp;</p>]]>
    </content>
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    <title>JR高田馬場駅にホームドア設置へ ー 背景に視覚障害者の願い</title>
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    <published>2011-10-13T08:13:07Z</published>
    <updated>2011-12-22T09:50:43Z</updated>

    <summary>首都圏の駅でホームドア設置が進んでいる。電車が止まったときにだけ開き、乗客の転落...</summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>首都圏の駅でホームドア設置が進んでいる。電車が止まったときにだけ開き、乗客の転落事故を防止する。JR東日本は2011年7月、高田馬場駅を含む9駅で、2014年3月までにホームドアを設置すると発表した。高田馬場駅は周辺に日本点字図書館、日本盲人福祉センターなどの施設が集中しており、視覚障害者の団体から、ホームドア設置を求める声がJR東日本へ寄せられていた。</p>]]>
        <![CDATA[<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;ホームドア設置のニュースを知り、日本点字図書館理事長で全盲の田中徹二さん（76）は、安堵の声をもらしている。「ホームドアがあるというだけで、駅を利用するときに精神的にまるっきり（安心感が）違いますから」</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;田中さんは、JR新宿駅と東京駅で、ホームから転落したことがある。ホームの内側がどちらか分からなくなったり、ホームの端を示す黄色い点字ブロックをまたいで超えてしまったりしたことが原因と話す。「点字ブロックの幅が狭かったり、すり減ったりしていると分かりにくいんです」</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;国土交通省が2011年8月に行ったアンケートによると、ホームから転落した人は、健常者を含む1400人あまりの回答のうち5パーセント未満にすぎなかった。しかし、1994年に全日本視覚障害者協議会が行った100人の視覚障害者へのアンケートでは、転落事故を経験した人は半数にのぼった。全盲の人に限ると、3分の2が事故を経験しているという。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;2011年に入ってからも、1月にはJR目白駅で、7月には東急田園都市線つくし野駅で、それぞれ全盲の男性がホームから転落し電車にはねられて死亡する事故が起きている。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;視覚障害者がホームドアのない駅で頼りにしているのが、30センチ四方の点字ブロックだ。しかし、今までに多くの不備が指摘されてきた。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;以前、点字ブロックの突起の数は、36個から41個までメーカーによってまちまちだった。そのため、日本工業規格（JIS）は2001年に、突起の数を25個、高さは5ミリと定めた。数を少なくして、突起があることをより強調したのだ。JIS規格ではないものの、ホームの内側を示す「内方線」をつけたブロックも開発された。内側がどちらか分かりやすいことに加えて、ブロックの幅が広いため一足で踏み越えにくいことも特長だ。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;しかし、すでに点字ブロックを設置していた駅には、JIS規格に合ったブロックへの張り替えが義務付けられなかったため、今もばらばらな規格のブロックが混在している。JR高田馬場駅でも、JIS規格に合ったブロックは4分の1ほどしかなく、内方線のあるブロックは一枚もないのが現状だ。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;JR東日本東京支社営業部の渡邉歩さんは「（JIS規格が定まるより）昔のブロック設置のガイドラインが誤っていたとは思っていない。そのため、摩耗、破損したものから、そのときのガイドラインに沿って順々に交換している」と話す。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;点字ブロックの改善が進まないなかで、ホームドアのより早い設置を求める視覚障害者の声は根強い。日本盲人会連合は、国土交通省に対してホームドアの設置を推進するよう求める要望書を毎年提出してきた。副会長を務める時任基清さん（78）は、高田馬場駅へのホームドア設置について「一部の駅だけにホームドアがあっても意味がない。まずは山手線すべてに早くホームドアを設置してほしい」と話す。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;&nbsp;現在、山手線でホームドアがあるのは2駅のみ。JR東日本は発表で、一部を除く山手線の全駅で、約500億円かけて2017年度末までにホームドアを設置する計画の前倒しを検討することも表明している。障害者の「一刻も早く」と願う声は、ようやく届き始めているようだ。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">【写真】JR東日本目黒駅に試験的に導入されたホームドア。ホームに電車が入った後に柵が開く仕組みだ。</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">&nbsp;</p>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px; text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<blockquote>
<p style="font-size: 14px; line-height: 23px; margin-top: 12px; padding-top: 0px; padding-right: 17px; padding-bottom: 0px; padding-left: 17px;">※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</p>
</blockquote>]]>
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    <title>守り続ける「本物の角帽」</title>
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    <published>2011-10-13T08:12:49Z</published>
    <updated>2011-11-12T12:13:36Z</updated>

    <summary><![CDATA[&nbsp;&nbsp;戦前、戦後を通して、多くの学生が学生帽をかぶってきた。な...]]></summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;戦前、戦後を通して、多くの学生が学生帽をかぶってきた。なかでも、早稲田大学の角帽の形は特殊だ。他の学生帽よりも、頭上の「天井」部分のひし形が大きく角ばっている。創始者の大隈重信が「どんなところでも、早稲田の学生と分かるように」と作らせた。年々、かぶる人は減ってきているが、今も角帽を作り続ける職人と愛用する学生がいる。</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;早稲田の応援部やサークルの人々が、角帽を毎年買いに来るのが、大学正門横にある「水野帽子店」だ。以前は大学周辺に数店あった角帽専門店も、今ではこの店だけとなった。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;店主の水野正雄さん（82）は、手作りにこだわり続ける職人だ。羊毛で作られたラシャの生地と、麻で作った芯を組み合わせて角帽を作る。生地も麻も、昔のような質の良い材料はなかなか集まらなくなってきた。それでも、今まで手がけてきた仕事を「手抜きするなんてできない」と語る。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;先代の父、栄二さんから受け継いだ大正時代の手縫いのミシンは、天井と側面を縫い合わせる時に欠かせないものだ。「少したるみをつけて縫い合わせるんです。すると、全体にふわっとして、前から見たときに格好が良いんですよ」。現在の全自動ミシンでは、このたるみは絶対に出せないという。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;水野帽子店は、戦後間もない時期に神田から早稲田に店舗を移した。焼夷弾による爆撃で、早稲田の街はまだ焼野原だったそうだ。材料が不足するなか、学生が持ち寄った布で、先代は角帽を作った。「学生が持ってきた陣羽織やマントを裁断して帽子にしていました。なかには迷彩服を持ち込んだ学生もいて、奇抜な柄のものも作ったそうです」と、水野さんは笑う。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;1960年代の終わりになると、男性も髪を伸ばすようになり、普通の洋服を着る学生も増えてきた。次第に、学生帽も売れなくなったという。戦後しばらくは毎年数千個作っていたが、最近では年に100個強の生産しかない。水野さんも妻から「体も弱いし、休んでもいいのでは」と言われたことがある。「だけど、この本物の角帽を誰も作ってくれなくなるのは忍びないからね。病気にならない限り続けたいよ」</p>
<p>&nbsp;&nbsp;「本庄～早稲田100キロハイク」など様々なイベントを行うサークル、早稲田精神昂揚会の第53代幹事長、商学部2年生の石川豊さん（20）＝写真中央＝は、水野帽子店の角帽を愛用する一人だ。イベントを主催する際には、必ず学ラン・角帽姿だ。「時々、授業にも着ていくんです。周りの人には『どうしたの』と言われてしまいますけど」</p>
<p>&nbsp;&nbsp;使い込んで、糸がほつれた角帽を持っていった時、水野さんが素早く修理してくれたことに驚いた。「僕らにとっては、先人たちとつながっていると思えるツールが、学ランであり角帽です。今も昔も変わらないですから」と、角帽を手に語った。</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p style="text-align: right;">&nbsp;</p>
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<p>※この記事は、2011年度J-School春学期授業「ニューズルームD(朝日新聞提携講座)」（林美子講師）において作成しました。</p>
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<p>&nbsp;</p>]]>
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    <title>在日中国人の権利を守っていく</title>
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    <published>2011-07-14T06:26:06Z</published>
    <updated>2011-11-10T06:19:50Z</updated>

    <summary>東京華僑総会は、日本に住む中国系の人々を支援する団体だ。会長の廖(りょう)雅彦さ...</summary>
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        <name>学生</name>
        
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        <![CDATA[<p>東京華僑総会は、日本に住む中国系の人々を支援する団体だ。会長の廖(りょう)雅彦さん(66)は、来年から施行される改正入国管理法に強く憤り、日本政府に反対の陳情をしてきた。「私たちも日本に住み永住権を持っている以上、日本人と同じ待遇にすべきです」</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;&nbsp;改正法では、永住外国人が日本に入国するとき、職業など詳しい個人情報を明記した「在留カード」を持たなければならなくなる。2007年にも法改正があり、永住外国人は入国時、指紋押捺と顔写真の撮影が義務づけられた。｢指紋を取るのは、そもそもテロ防止のためです。日本人は取らないのになぜ永住外国人は取られるのですか？｣</p>
<p>&nbsp;&nbsp;台湾出身の父親は20代で来日。アルバイトをしながら1940年に開催される予定だった東京五輪を見ようと思っていたが、日中戦争の深刻化で五輪は中止。その後、日本人女性と知り合って結婚した。戦後、中国共産党に敗れた国民党政府が台湾に移ると、共産党支持者だった父親は台湾に戻れなくなった。廖さん自身は中華学校に通わず、日本人に交じって育った。</p>
<p>&nbsp;</p>
<h5>祖国のためにできること</h5>
<p>&nbsp;&nbsp;「祖国」中国への思いを深めたきっかけは、高校卒業後、大学受験に集中しようと、中国人留学生が集まる「後楽寮」（東京都文京区）に入居したことだ。留学生たちの来日目的は、中国の社会主義建設に貢献することだった。その熱意に影響を受けて、自分も中国の国家建設に役立ちたいと思うようになった。明治大学を卒業後、父親の後を継いで東京華僑総会の職員になった。</p>
<p>&nbsp;&nbsp;総会の主な業務は、在日中国人向けの証明書の発行だ。親族関係を示す書類や国籍、華僑などの証明書、ビジネス関係の文書などを取り扱っている。今年３月の東日本大震災の日は、帰宅できなくなり、華僑の仲間たち20人と東京・銀座にある華僑会館に宿泊した。「大変な状況だったが、それでも日本に残ります。長年住んでいて、自分が愛する場所だから」。３人の子供はそれぞれ独立した。仕事についてあれこれ言うつもりはないが、できる範囲で中日友好につながるような仕事をしてほしいと願っている。</p>
<p style="text-align: right;"><img title="{#j-school_logo}" src="http://www.spork.jp/blog/mt-static/plugins/TinyMCE/lib/jscripts/tiny_mce/plugins/emotions/img/j-school_logo" border="0" alt="{#j-school_logo}" /></p>
<p>&nbsp;</p>
<blockquote>※この記事は、J-Schoolの2011年度前期講義「ニューズルームD（林美子先生）」において作成しました。</blockquote>]]>
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